著名な栄養学者が論文撤回で辞職―その背景は

論文に書かれている通りの方法で実験を行っても、結果を再現できない「再現性の危機(reproducibility crisis)」。これは学術界にとって深刻な問題です。また、まったく別の問題であるにも関わらず「研究不正の有無(scientific misconduct)」と混同され、問題が深刻化することも多々あります。再現性の危機は、研究室で行われた多くの研究の再現実験あるいは追試で同じ結果が再現できないことに端を発していますが、再現実験で同じ結果が得られなければ、科学研究としての価値が薄れるだけでなく、その原因が研究不正にある可能性が高いため、結果として複数の名だたる学術雑誌(ジャーナル)が論文を撤回することになってしまうのです。撤回される論文の数が増えていること含め、学術界は危機感をつのらせています。

■ 栄養学第一人者の辞職

2018年9月20日、コーネル大学の教授であり、栄養学の研究者であるブライアン・ワンシンク(Brian Wansink)博士が、米国医師会雑誌(the Journal of American Medical Association (JAMA))に6論文を撤回されたことを受けて辞職したことが、ワシントンポストに報じられました。アメリカのアイビーリーグに属する名門コーネル大学の研究者の辞職が有力新聞紙に取り上げられたことが、再現性の危機の深刻さを物語っています。

ワンシンク博士は、食品消費の行動心理学の第一人者で、広告やパッケージが食生活におよぼす影響などに着目した食生活改善のための研究を推進していました。1992年にイリノイ大学で食品商標研究所(Food and Brand Lab)と消費者教育財団(Consumer Education Foundation)を設立し、2005年にそれらの組織ごとコーネル大学に移っています。

彼は、健康や食品に関する多くの問題を研究テーマとして扱ってきました。例えば、自動的に給仕されるスープ皿でスープを飲むと、通常のスープ皿で飲んだ人よりも多く飲むという「bottomless bowls(底のない器)」という研究を発表し、2007年にイグ・ノーベル賞を受賞したことでも知られています。また、ファストフードなど健康的ではない食品には「health halos(健康におけるハロー効果)」があると提唱しました。ハロー効果とは、ある対象を評価する時にそれが持つ顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象ですが、“サブウェイ”などの健康志向の高いファストフード店で食事を購入する際、“マクドナルド”のような健康志向の低い店で購入するのに比べて、消費者はメインメニューのカロリーを少なく見積もり、その分、高カロリーのサイドメニューや飲み物、デザートを選ぶ傾向があるとの概念をhealth halosと称しています。

ところが、こうした数々の研究成果にも関わらず、ワンシンク博士は期せずしてコーネル大学での職を失うことになりました。辞職の発表は、JAMAが科学的な有効性が欠如しているとの理由で博士の6論文を撤回した翌日でした。以前にも7本の論文が撤回されていたのと合わせ、2005年から2014年の間にJAMAの3誌に出版された13本が撤回されたと指摘されています。コーネル大学の総長であるマイケル・コトリコフ(Michael Kotlikoff)氏によれば、「この調査で、研究データの虚偽報告、問題のある統計手法、適切な文書および研究結果の保存における不備、さらに不適切なオーサーシップ(Authorship)の記載が明らかになりました。」とのことです。

■ 飛び交う憶測

ワンシンク博士は、タイプミスや統計の誤り、その他の落ち度については認める一方で、自身の研究内容については正当性を主張しています。つまり、これらの落ち度があったとしても研究の「実質的な結論」に変更はなく、研究成果は自信を持てるものだと反論しているのです。しかし、科学論文の撤回を監視するブログ「リトラクション・ウオッチ(Retraction Watch)」の共同創設者イヴァン・オランスキー(Ivan Oransky)博士は、これは、科学における不正行為の深刻なケースだと述べています。こうしたミスは、統計の根本と学術雑誌が掲載する研究の有効性を脅かすものだと考えているのです。

実際、ワンシンク博士に疑惑の目が向けられたのは、今回が初めてではありません。以前から彼の研究の信憑性には疑問が呈されており、論文にも記されています。その論文の著者らは、ワンシンク博士の論文を分析し、p値ハッキング(p-hacking)と呼ばれる統計処理を行った疑いがあると指摘しています。p値ハッキングとは、データの浚渫(しゅんせつ、data dredging)とも言われ、得られたデータから特定の値(p値)が小さく見えるように操作することです。有意な数値だけを報告するといったことで、注目を集める成果を作り上げているわけですが、データ自体は存在しているので捏造にはあたりません。しかし、p値ハッキングをすることで食物と病気の相関関係が曖昧になり、結果の信頼性が揺らぐことになります。同じデータセットを再分析することで、異なる解釈を導き出すことができてしまうからです。例えば、コーヒーやチーズと赤ワインは心臓病やガンの予防に効果的と示す論文がある一方で、別の研究分析で、同じ物がガンの原因になると示すようなものです。

研究の目的が、世の中の役に立つ情報を提供することよりも学術雑誌に掲載されることにすり替わってしまったのでは――との憶測を生んだわけですが、問題は 論文撤回 ・辞職だけでは終わりません。「食品」という生活に密着する研究においてワンシンク博士のようにメディア露出の高い研究者がデータ操作した情報を広めたのだとすれば、消費者は何を信じればよいのでしょう。栄養食物学分野の研究者や、むやみに研究成果を取り上げる報道関係者にも課題を突きつけることになったのです。

■ 不正行為の背景にあるもの

ニューヨーク大学の栄養食物学および公衆衛生学のマリオン・ネスレ(Marion Nestle)教授は、「論文を書かずして、研究職には就けない」と言います。教授や研究者の感じる論文掲載へのプレッシャーがうかがい知れる言葉です。もちろんこれは、栄養食物学だけに限ったことではありません。どの分野でも同じです。科学研究者は膨大なデータセットを見て、自分が欲しい結果を導き出すためにデータを操作することもできます。とにかく何らかの学術雑誌に論文を掲載することが唯一のゴールとなったときに陥りがちな過ちです。ワンシンク博士が彼の配下の研究者に宛てたメールで、研究成果が「爆発的に広まる」ように、データを変えるよう迫っていたという例もあるとのことです。

情報を急速に広げることが、学術的に困難な研究をすることよりも重要なものにすり替わってしまったようです。こうした状況は、学術界において深刻化する大きな問題の一角ですが、学術界でも再現性および研究不正に対する危機感は共有されており、査読の徹底をはじめ、これらの問題に対処するためのさまざまな取り組みが始まっています。ワンシンク博士の件は、問題解決に向けた取り組みと、科学研究における不正行為の一層の削減に向けた対策の必要性を示しています。


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