生命科学分野は「プレプリント」を導入すべき?

論文の原稿をジャーナル(学術雑誌)に投稿しても、なかなか掲載(出版)されない、という不満がよく聞かれます。論文の出版は、研究者のキャリアに大きくかかわるので、掲載までにかかる時間は大問題です。また、現在の情報化社会においては、よりスピーディーな情報交換の手段も求められています。そのために注目を集めている手法の1つが「プレプリント(preprint)」です。

プレプリントとは、ジャーナルに論文として掲載されることを目的に書かれた原稿を、完成段階で査読の前にインターネット上のサーバーにアップしたもののことをいいます。物理学分野で始まったといわれていますが、コンピュータ・サイエンスや数学、経済学でも一般的になりつつあります。

2016年2月16日と17日には、メリーランド州にあるハワード・ヒューズ医学研究で、「ASAPbio(生物学における科学出版の加速)」という会議が開催されました。カリフォルニア大学の細胞生物学者ロン・ヴェール教授やロックフェラー大学の神経生物学者レズリー・ボッシャル教授など有力な研究者らが呼びかけたもので、生命科学分野におけるプレプリントの活用について議論されました。『ネイチャー・ニュース』では、生物学者のなかには物理学分野にいる同僚たちの後を追おうとしている者がいる兆しもある、とレポートしています。

物理学分野では、すでに一般化されているプレプリント。物理学分野では、毎月8000本ものプレプリントが「arXiv」という1991年に設立されたプレプリントサーバーに投稿されているといいます。生命科学分野では、2013年に専門のプレプリントサーバー「bioRxiv」が設立されました。設立当初はひと月あたり50本ほどの投稿数でしたが、徐々に増え続け、2016年1月には200本が投稿されるようになりました。2016年2月時点では、合計3100本ものプレプリントが公開されています。

生命科学分野でも普及しつつあるプレプリントですが、研究者たちは下記のようなリスクを指摘しています。

・ライバルにアイディアを盗まれ、名声を得る機会を逃してしまうのではないか
・査読を経ていない研究結果が公開されることで、科学としての質が低下するのではないか
・査読のあるジャーナルに掲載されるチャンスを失うのではないか

ASAPbioの主催者たちによれば、生物学者たちの多くはまだプレプリントについてよくわかっておらず、どのような影響があるのか話し合われてさえいない、という見解を示しています。2点目の疑問については、自分たちの評価が公開されている初期段階の研究に基づくようになれば、研究者たちはより注意深くなるだろう、とプレプリントの支持派たちは考えています。また、bioRxivの設立時、ジャーナルの出版社のなかにはプレプリントサーバーに投稿された研究でも出版を認めるとルールを変更したところもあり、業界全体の流れも変わってきているようです。

なお、ASAPbio主催者の1人であるボッシャルのプレプリントはすべて、「堪え難いほどノロマな査読プロセス」を経て通常のジャーナルに掲載されたといいます。『ネイチャー・ニュース』は、彼女の過激な言葉を次のように紹介しています。

「そのほとんどは何も変わったように見えません。だとしたら、ジャーナルなんてなぜ必要なのでしょうか?」

その一方で、プレプリントを牽引してきたはずの物理学の研究者のなかにも、プレプリントに批判的な者もいます。ストックホルム大学の宇宙物理学者ヤン・コンラッドは2015年、同じ『ネイチャー』に寄せた論説で、いくつのも実例を挙げながら次のように批判しています。

arXivに投稿された不正確な論文は、見当違いの研究結果というノイズをもたらす以上のことをしている。資金提供に関する決定は歪められ、理論家たちは説明を訂正しようとして多大な時間を無駄にし、そして一般市民は報道によってミスリードされる。

ヤンの見解はASAPbioの主催者たちとは異なるようです。はたして生命科学は物理学の後を追うべきなのかどうか、今後の展開に注目が必要です。


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ライター紹介:粥川準二(かゆかわじゅんじ)
1969年生まれ、愛知県出身。ライター・編集者・翻訳者。明治学院大学、日本大学、国士舘大学非常勤講師。著書『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)など、監修書『曝された生』(アドリアナ・ペトリーナ著、森川麻衣子ほか訳、人文書院)。博士(社会学)。

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