14

撤回論文の データ をどう扱うべきか?

一度は出版された論文が「撤回」されてしまうことがあります。その理由はさまざまで、よく話題になるのはやはり「研究不正」でしょう。データの捏造や改ざん、盗用などが発覚した際には通常、ジャーナル(学術雑誌)の編集部はすみやかにその論文を撤回することになります。

そのほか、ほかの研究者が同じ対象を同じ方法で実験しても同じ結果が得られず、その過程で重大なミスが見つかった場合などにも、その論文は撤回される可能性が高くなります。
また、人間つまり被験者を対象とする臨床研究の場合、適切なインフォームドコンセント(説明を受けた上で被験者となることへの同意)がなされていなかったなど「倫理的」問題が発覚した場合にも、論文は撤回されます。

意外にも、論文の撤回についての調査はあまり多くないのですが、日本の生命倫理学者が医学論文が撤回される理由を調査して、2006年4月、専門誌『研究における説明責任 (Accountability in Research)』で発表しました。

東京大学医科学研究所公共政策分野の井上悠輔らは、生物医学分野の論文データベース「パブメド(PubMed)」を使って、1981年から2011年にかけて出版(公表)された研究論文で、最終的に撤回にされたものを同定しました。そのうえで、それらの「撤回通知」を調査し、撤回の理由などの傾向を明らかにしました。

井上らが着目したのは、“被験者を保護するために求められる条件”に違反したことを理由に撤回された医学論文でした。調査対象となった期間に撤回された論文1217件のなかで、被験者保護の必要条件を満たさなかったために撤回された論文は99件見つかりました。そのなかにはインフォームドコンセントにおける 問題があったために撤回されたものも6件ありました。

そうした論文の責任著者の出身国は、(後述するボルトが研究していた)ドイツ(99件中78件)が最も多く、続いて日本(6件)、アメリカ(3件)、オーストリア(3件)でした。
井上らによると、ジャーナルが発行する「撤回通知」の大多数は「倫理的検討そのものがなされていなかったこと」を撤回の理由として強調していたのですが、その記述はいずれも曖昧だったといいます。

それぞれのケースのほとんどの部分において、撤回の理由を理解することは困難であった。編集者たちは、撤回についての決定の根拠を明らかにしなかった。

 

また、「撤回された論文に含まれているデータはどのように取り扱われるべきであるかを指摘した撤回通知は1件もなかった」といいます。撤回された論文99件中96件は、ほかの論文の中で合計3072回引用されていました。撤回後1年以上経ったものに限っても、83件の論文が485回引用されていました。
注意すべきことは、そうした論文99件中79件は、ドイツの麻酔科医ヨハヒム・ボルトが率いる研究チームが行った研究の結果をまとめたもので、主に2011年に撤回された論文だったということです。この大規模な論文撤回事件は「ボルト事件」と呼ばれています。ボルトらは「ヒドロキシエチルでんぷん」の臨床研究などを行っていました。

ボルト事件に巻き込まれたジャーナル16誌の共同声明(2011年)によれば、ボルトらの論文は「非倫理的」だったといいます。「研究のためのIRB(Institutional Review Board: 機関内審査委員会)の認可は、出版された論文では不正確に書かれた」。しかしその後の調査で、ボルトらの論文の多くには、捏造されたデータが数多く含まれたことが発覚しました(2013年)。
井上らは「撤回理由として明らかにされた倫理的法令違反は、おそらく氷山の一角であろう」と推測しつつ、「たとえもしある研究が調査の初期段階で「非倫理的な研究」というラベルを貼られても、科学的不正行為の全貌は明らかにならないかもしれない。それ(科学的不正行為)は多くの場合、倫理的問題よりも確かめるのに時間がかかるのだ」と警告します。

実際、ボルトらの論文は撤回されてからも「メタアナリシス」(複数の研究データを収集・統合し、統計的方法を用いて解析する研究方法)の対象になったこともあります。それは論文の撤回理由が当初は「倫理的」なことであったからであり、撤回の決定が「この研究結果それ自体が不正であることを意味しない」と説明されたからでもありました。

しかし捏造された データ がメタアナリシスに使われ、その結果が医学においてコンセンサスとして通用してしまえば、当然ながら臨床にも悪い影響がおよぶ可能性があります。

井上らによれば、ボルト事件とよく似た事例が日本にもありました。2012年、東邦大学の麻酔科医・藤井善隆がまとめた論文8本が、内部告発にもとづく調査によって、倫理的検討がなされていなかったことがわかり、撤回されました。しかしその後、ジャーナルの編集者たちと日本麻酔学会による調査によって、研究データの捏造があることが明らかになり、170本以上の論文が撤回されることになりました。(2012年以降は、井上らの調査対象期間には入っていません。)
井上らは「撤回や論文における倫理問題について知っていたにもかかわらず、これら撤回された論文に残っていた データ を意図的に使った研究者もいる」ことに注目します。

その一方で、そのようなデータを分析から除外した研究者もいるのだ。このことは、撤回された論文に残されたデータの取扱について、共通見解がないことを意味する。

 

倫理的な問題があることがわかった研究のデータをどう取り扱うべきか、ということについては2つの考え方あります。

1つは、たとえ倫理的な問題があっても、科学的な問題がなければその後の研究にも利用できる、という考え方です。ボルト事件に対するジャーナル16誌の当初の共同声明は、そう考えたようです。
もう1つは、倫理的な問題があるのならば、たとえ科学的な問題はなくてもその後の研究には利用すべきではない、という考え方です。井上らは、著名な生命倫理学者ヘンリー・ビーチャーの「そのような(倫理的な問題のある)データを出版しないことは、将来の非倫理的研究を防ぐことに役立つだろう」という見解を紹介しています。人間を対象とした実験の原則をまとめた「ヘルシンキ宣言」においても、この考え方が導入されていますが、「倫理的検討に必要な条件」について「普遍的な解釈」が存在しないことが問題だといいます。

井上らは以上のように、ジャーナルの編集部が「撤回通知」において撤回の理由をしばしば明確に説明しないこと、データの妥当性や有用性の詳細を述べないことを強く批判します。「被験者保護をめぐる過失を説明する撤回通知における現行のアプローチは、読者にとっては混乱をもたらすものである」
撤回の通知方法はもちろん、撤回された論文におけるデータの取り扱いについて、真剣に議論しなければならない時期が来ているようです。


ライター紹介:粥川準二(かゆかわじゅんじ)
1969年生まれ、愛知県出身。ライター・編集者・翻訳者。明治学院大学、日本大学、国士舘大学非常勤講師。著書『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)など、監修書『曝された生』(アドリアナ・ペトリーナ著、森川麻衣子ほか訳、人文書院)。博士(社会学)。

Subscribe
Notify of
guest
0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
X

今すぐメールニュースに登録して無制限のアクセスを

エナゴ学術英語アカデミーのコンテンツに無制限でアクセスできます。

  • ブログ 560記事以上
  • オンラインセミナー 50講座以上
  • インフォグラフィック 50以上
  • Q&Aフォーラム
  • eBook 10タイトル以上
  • 使えて便利なチェックリスト 10以上

* ご入力いただくメールアドレスは個人情報保護方針に則り厳重に取り扱い、お客様の同意がない限り第三者に開示いたしません。