学術界を知る

p値ハッキングとは?有意水準0.05をめぐる落とし穴【p-hacking】

研究の世界では統計的な有意性が求められます。 有意性の判定基準として通常は「P値(有意確率)」が使われており、調査・研究対象によって違いはありますが、一般的には0.05(= 5%)を有意水準として、P値が0.05以下の時に仮説が有意であるとされます。 これはつまり、この事象が起こりえる確率は95%以上であるということを示しているわけで、P値が低ければ低いほど起こりえる確率が上昇することになり、その結果、有意性の度合いが高いと評価されます。 ここで、統計的有意性「P値」について簡単に説明しておきましょう。 得られたデータ標本から計算した統計値を「統計量の実現値」と言います。「P値」は、帰無仮説(設定した仮説は成立しないという仮定)が正しいとした場合、そこで得られる統計量の実現値よりも極端な統計値が観測される確率のことです。 統計量の実現値においてP値が0.05(5%)以下ということは、「帰無仮説が正であれば(つまり仮説が成立しない)、観測されたような事象が生じる確率は5%以下と極めて珍しい。従って帰無仮説は成り立ちにくく、仮説が正である可能性が高い」ということです。少々ややこしいですが、帰無仮説を用いた検定は、逆側からの立論となっているので辛抱してください。 なお、「P値」の「P」は「Probability(蓋然性、確率)」のPです。さらに話をややこしくするのは、統計指標であるはずのP値に、誤用や誤解が付き物であるという実態です。 このため、一部の研究者や学術雑誌(ジャーナル)はP値の使用を控える動きがあることも書き添えておきます。 さて、本題に入りましょう。太郎さんと花子さんという二人の研究員の会話の形で問題を解説します。 統計的有意性の追求 太郎:やり方を間違ったかな。有意な結果が出るはずなのに、P値は約0.08。どこが間違ったのかわからないよ。 花子:手順を再確認してみた? 太郎:やったよ。手順には問題がなさそうなんだ。指導教官は高インパクトなジャーナルにこの研究成果を発表して、次の研究プロジェクトの資金を獲得したいと思っているのに、今のところ得られている実験結果は、統計的に有意とは言えないよ。やり方を変えてみようかな。 花子:どう変えるつもり?…

オープンアクセスの動向と課題

オープンサイエンスが進展し、国際的にも広がるにつれ、研究の専門家に限らずあらゆる人が学術研究の成果や研究に関連する情報にアクセスできるようになってきていますが、同時に研究スタイルやデータ共有などに影響がおよんでいます。今回は、オープンサイエンスとは切っても切れないオープンアクセス(OA)の動向と課題について振り返ってみます。 https://www.youtube.com/watch?v=10cfN0EvKh0 オープンアクセスウィーク 毎年10月に、オープンアクセスに関連するイベント「オープンアクセスウィーク」が世界各地で開催されており、2019年は10月21日から27日に行われました。このイベントは、2008年に学術・研究図書館の国際連合であるSPARC(Scholarly Publishing and Academic Resources Coalition)と学生コミュニティが立ち上げたもので、以降、毎年開催されています。2019年のテーマは「Open for Whom? Equity in Open Knowledge(誰のためのオープン化?オープンな知識における平等を考えよう)」で、まさに研究活動を進める上での本質的な問題を突いているものでした。この質問を投げかけることで、既存のシステムがもたらしているとされる不平等性をオープンアクセスが解消できるかを議論しています。オープンアクセスウィークの詳細情報はwww.openaccessweek.orgで公開されているので、掲載されているブログなどを読んでみると興味深い見解を知ることができるでしょう。…

科学技術基本法の改正で変わること

国会での審議なんて学術研究には関係ないよ……と言われるかもしれませんが、今国会は要注意です。というのは、今国会に科学技術基本法の改正案が提出されると見越されているからです。はたしてどのような「改定」が検討されているのか、近年の日本の科学研究の危機的状況を解消することにつながるのか。改定で変わることを見てみます。 1995年に議員立法で成立した科学技術基本法は、日本の科学技術・イノベーション(技術革新)創出の振興を目的として設定されたものです。科学技術の振興に関する施策を計画的に推進するため、基本計画(科学技術基本計画)、研究推進のための総合的な方針、研究設備・環境の整備および研究者の育成などに関する定めを示しています。1996年から5年ごとに策定するよう定められていますが、近年は特に時代にそぐわない課題がいろいろ出てきているので、それらを踏まえた改正法案を2020年の通常国会に提出し、2021年度からの第6期科学技術基本計画に反映させるとしています。よって、今回の改正は日本の学術研究に大きな影響を及ぼすと考えられるのです。 2019年11月20日、内閣府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の有識者による作業部会は「科学技術基本法」の改正に向けた報告書『科学技術・イノベーション創出の総合的な振興に向けた科学技術基本法等の在り方について』 を公表しました。政府はこれを受けて具体的な法改正作業を進め、今年1月からの通常国会での法改正成立を目指しています。今回の改正が実現すれば、これまで対象としていなかった人文科学の振興が追加され、さらに、イノベーション創出の概念が明確化されることになり、今後の日本における科学・技術政策のあり方などに大きな影響を与える可能性があると言われています。 改正の柱のひとつは、従来の基本法の対象が「人文科学のみに関わるものを除く」とあるものの修正です。科学技術基本法の第一条を見ると、冒頭に「科学技術(人文科学のみに係るものを除く)の振興に関する施策」と規定されています。今回の改正でこの規定をやめようとしています。日本学術会議 は、人文・社会科学を含む科学・技術の全体について長期的かつ総合的な政策を展開することの必要性を指摘しています。これは、近年、地球規模の環境問題や人口知能(AI)、ゲノム編集技術の発展といった現代社会の課題に対応するためには人文・社会科学の研究も不可欠になっているとの意見が増えていることが背景にあります。環境問題の解決には、自然環境と人間活動の結びつきを理解する必要があるため、生物学、地球科学、社会科学、人文科学など多分野からのアプローチが求められます。また、AIによる自動運転を実用化する場合、法律や行政の知識が必要となるため、イノベーションの段階から人文・社会科学も一緒に研究に携わる必要が出てきます。改正法となる「科学技術・イノベーション基本法」(仮称)では、AIの自動運転による事故の扱いなど、人文・社会科学系の知や解釈を重視するとしています。実際、2016年にはグーグルの自動運転車が公道での走行実験中に接触事故を起こし、法的責任に関する問題が指摘されました。このとき、米運輸省道路交通安全局はグーグルの自動運転車が搭載する人工知能(AI)を連邦法上の運転手とみなす方針を明らかにしましたが、運転手の有無や介入の仕方によって運転責任が変わってくることなどを鑑みれば、自動車に関する法令につき抜本的な議論が必要となることでしょう。同様に、ゲノム編集の研究でも、法学あるいは倫理学的な視点が必要になってきます。2019年に中国研究者が遺伝子操作した受精卵から双子が誕生したという衝撃ニュースが世界を駆け巡り、日本の国会でもゲノム編集技術について審議 されましたが、厚生労働省は従来通り研究指針で規制する考えを示しました。つまり、日本では遺伝子を改変した受精卵による妊娠・出産させることを研究指針で禁止しているのみで、ゲノム編集による改変は網羅的には規制対象となっていないというのです。受精卵の操作については倫理的な問題も議論されていますが、他のゲノム編集技術も日々刻々と進歩し、同じく2019年には日本でゲノム編集された食品が解禁になっているなど、既にゲノム編集が身近なところに迫っていることから慎重な議論が必要となっています。このような状況を踏まえ、文理融合の研究とそのような研究を推進する研究者の育成が急務となってきているのです。 もうひとつの改定の柱は、現行の基本法にはないイノベーションの概念を導入するとして、科学技術・イノベーション(STI)を明確に定義付けていることです。近年の科学技術・イノベーション(技術革新)政策の動向を踏まえ、科学技術振興を基本理念とした現行法とのズレを修正するために必要な規定を追加するとしています。「イノベーションの創出」が重要であることを前提とすることで、イノベーションのプロセス全体を通じて自然科学と人文・社会科学が連携することが期待されます。日本の学術研究の将来が不安視される中、科学技術レベルの向上とイノベーションの創出は重要です。政府は、科学技術イノベーションは経済再生の原動力であり、科学技術イノベーション政策を強力に推進していくと表明。一方の学識者は、今回の改訂で「イノベーションの創出」が書き込まれようとしている点は評価しつつ、基本法本来の目的である科学・技術振興、とくに基礎研究振興の視点が後退しないか注視する必要があると指摘 しています。大学や国立研究所がイノベーション創出のため「成果の普及」を義務づけられた場合、産学官連携への国家動員が強まる危険性を懸念する識者もいます。また、従来の自然科学中心の科学技術振興に加えてイノベーションにまで範囲を広げることで、自然科学における最先端技術に大きな予算が配分されている現状の科学技術予算の範囲は大幅に変わると予想されます。政府は、平成28~32年度の第5期基本計画 及び統合イノベーション戦略でも重要な分野や効果の高い施策への重点的な資源配分を図り官民の研究開発投資の拡充を目指してきました。科学技術・イノベーション創出の活性化に関する法律等の見直しでは、産学官連携を活性化するために国立研究開発法人の出資規定の整備 を行うことも検討するとしていますが、予算配分は研究者にとって影響が大きいだけに今後の動きにも注意が必要でしょう。 今回の科学技術基本法改正により、日本の学術界のサイエンス至上主義が見直され、人文社会科学の存在感が増すことを期待します。 参考: 文部科学省 科学技術基本法について(外部リンク) こんな記事もどうぞ…

気になる研究助成金の分配方法

研究助成金は研究を続ける上で不可欠です。なんとか必要な額の助成金を得ようと苦労している研究者が、申請が不採択となった理由を知りたいと思うことは不思議ではありません。助成金の審査方法だけでなく分配方法も気になります。一方、助成金提供者側にとっては、助成金申請の数が増加すると、事務手続きが膨大な量となって負担が重くなる上、すべての申請内容を評価し、合意を集約させるのは一苦労です。では、手続きを簡略化する対策として「公正な抽選により、あなたの申請は不採択になりました。」と言われたとしたら、研究者は納得できるのでしょうか? 実際、資金提供者の手間と審査に要する時間を削減すると同時に、公平性を保つため、申請をランダムに選んでいる(任意抽出している)組織があるようです。ニュージーランドの保健研究会議(Health Research Council)は研究資金提供先を「くじ引き方式」によって抽出している一例ですが、このように部分的なものも含めてランダム抽出を行っている団体・研究機関の数は増えているとnatureの記事が指摘しています。 変わりゆくプロセス 研究資金提供団体の中には従来の選出方法は妥当ではないとして、「くじ引き方式」を実施しつつ、研究助成金の選出プロセスに透明性を持たせるための新しい方法を模索しているところもあります。一方、従来の方法をとっている団体も、研究分野によってはランダム抽出への動きがあることは認識しており、今後の動きを検討しています。2019年11月にスイスのチューリッヒ大学で開催された会議では、科学界におけるより広域な作業にもランダム式選考を採用すべきとの意見も出されました。この主張によれば、助成金申請の抽出に留まらず、どの論文を出版するかの選出や、さらにはどの候補者を研究者として採用するかの選考にも使うことができるとしています。この会議の主催者でもあるチューリッヒ大学の経済学者は、ランダム方式は現在のプロセスよりも高い開放性を得ることができるだろうと示唆しています。現行プロセスは、研究者にとっては申請書類の作成に関するさまざまな作業に手間取る割にはいくら苦労しても不採択となる可能性は捨てきれず、評価委員にとっても大きな差異のない申請書類を大量に仕分け、評価、選出することに多くの時間を要することから、効率的とは言い難いと述べています。さらに、標準的な評価が、政策立案者、出版社、大学の事務局が思うようには行われていない上、審査・選考を行うあらゆる組織・団体が的確な基準をもって機能しているわけではない現状も指摘しています。 今では、ニュージーランドの技術革新科学基金(Science for Technological Innovation National Science Challenge, SfTI)やスイス科学財団(Swiss National…

米国の2020会計年度の予算の行方は

学術界が、資金確保と科学的な知見への不信感から困難な状況に置かれています。とくに顕著なのが、トランプ大統領の率いる米国。米国は、最先端の研究を進め、学術雑誌への掲載論文数も多い「科学大国」でしたが、地球温暖化は「でっちあげ」だとの発言を筆頭に、平然と科学的知見に反論するトランプ大統領の就任後、科学への不信感が広がっています。同大統領は米国環境保護庁(EPA)や米国航空宇宙局(NASA)による温暖化研究を「税金の無駄」と評しただけでなく、主だった研究機関の 研究費 の大幅削減を試みています。特に、米国国立衛生研究所(NIH)と米国国立科学財団(NSF)への予算増加はしないと明言したことから、米国の科学研究の行く先が不安視されています。 大統領の姿勢 研究費の削減は、科学研究全体に多大な影響を与えるのは必至ですが、大統領の科学軽視の姿勢は、科学への不信感の増大に影響を及ぼすこともあります。かつて、トランプ大統領は、麻疹(はしか)のワクチン接種の副作用が自閉症につながるなどと科学的論拠を無視した発言を繰り返しツイートしていました。Anti-vaccinationistを示す「anti-vaxxer」と呼ばれる反ワクチン論者の集団は、米国中間選挙の裏で選挙資金を流して選挙に関与したとも言われていますが、その政治的な動きはともかく、予防接種率が低下したことではしかの感染が拡大してしまいました。このときの感染拡大を受け、ニューヨーク市のブルックリン地区では公衆衛生の非常事態宣言が発令されたほどです。幸いにしてトランプ大統領は、はしかワクチンについては「予防接種は重要だから受けなさい」と意見を覆しましたが、科学への不信感による影響には恐ろしいものがあります。トランプ大統領の科学軽視の傾向に加え、トランプ政権を支持する人の間には科学研究活動に対する不信感が根強いのです。そして、トランプ政権における科学技術への関心の薄さが研究費削減という予算案となって示されていると言えるでしょう。 トランプ政権による研究費削減策とその影響 2019年3月、トランプ大統領は、ほぼすべての政府系研究機関向けの予算を大幅にカットするよう議会に求めました。ここで対象外となったのは、米国エネルギー省(DOE)と米国航空宇宙局(NASA)の2機関のみです。 これに先立ち、2018年12月22日から2019年1月25日にかけて米国政府機関の一部機関が閉鎖されていました。35日間もの閉鎖は、歴史上での最長の長さにおよび、約30億ドルもの経済損失が生じたと試算されています。この影響は学術界にも波及し、NSF単体でも2000もの助成金申請処理が遅れたほか、さまざまな点で支障をきたす原因となりました。 そして今年前半、トランプ大統領はすべての政府系研究機関の研究費を削減するとの予算教書を提出したのです。NIHの研究費については、大統領による前年比5億ドル減の予算案に対して、下院が2億ドル増を提案し、同様に、NSFの研究費についても予算増の提案が出ていましたが、行政予算管理局(OMB)は増額案に反対。研究費などの削減分は軍事費の増額分に充てられるとの噂もあり、予算における攻防が続いています。 下院の民主党らは、トランプ政権は政府系研究機関による科学研究、特に基礎研究の重要性を認識していないと主張し、予算削減に抵抗しています。トランプ大統領の掲げる「国境の壁」建設費をめぐっても妥協点は見えていません。大統領は9月に11月21日までのつなぎ予算に署名しましたが、本来10月1日から始まる2020会計年度の予算は11月21日までにまとまらず、11月21日に大統領が継続予算決議(CR)に署名したことで12月20日まで交渉は継続されることとなりました。これで当面、政府機関の閉鎖は避けられてはいますが、また年末になって騒ぎにならないとも限りません。 トランプ政権による優遇 OMBは大統領府の付属機関であるため、予算については大統領の意向を反映させがちな傾向があり、予算削減の対象外とされた2機関については異を唱えていません。一方で、OMBのディレクターRussell Voughtは、NASAの研究開発プログラムに対し、2024年までに再び有人月面着陸を行う目標を達成するための研究開発費を含め7億ドルの増額が必要だとする書簡を10月23日に議会に提出しました。トランプ大統領は、宇宙開発においても「かつての偉大さを取り戻す」と約束しており、NASAの一部の研究開発については積極的に財政支援するようです。また、DOE科学局とエネルギー高等研究計画局(ARRPA-E)に対しては史上最高額の予算案が可決されています。DOEは、無人・自立システム、人口知能(AI)、極超音速技術、指向性エネルギーに関する技術開発を優先事項に掲げています。これらのことから、トランプ政権下の予算案の特徴としては、経済成長優先と、好む政策と好まない政策の予算案の増減について大きな落差があると言えそうです。 学術界の反応 トランプ政権が、基礎研究を軽視し、偏った予算配分を強行しようとしていることに対し、学術界はどう反応しているのか気になるところですが、多くの研究者、研究グループ、機関は前回の政府機関の閉鎖の影響から回復しきれていないのが現状です。閉鎖期間中は会議開催や研究活動の制限、あるいはキャンセルを余儀なくされました。政府系の博物館などの資料やデータへのアクセスも制限され、データセットへのアクセスができなかっただけでなく、データ自体に穴(抜け)が生じたりしており、それらの損失は計り知れません。しかも、同期間中、無給となってしまった研究者もいたのです。ひどい事態ではありますが、多くの研究者にとって、将来、研究費が大幅に削減された場合には同様の事態が起こり得るのです。…

中国系研究者を狙い撃ちか?

がん治療・研究に特化した研究施設であり、がん研究では世界トップを走るテキサス大学MDアンダーソンがんセンターに米連邦捜査局(FBI)の捜査が入り、研究情報の窃盗の疑いでアジア系の教授を解雇したことが報じられました。このニュースについて説明します。 テキサス大学MDアンダーソンがんセンターの教授解雇 テキサス大学MDアンダーソンがんセンターで、2019年4月に研究者5名が相次いで同センターを去りました。同センターの発表によれば、2018年8月に米国国立衛生研究所(NIH)から数名の研究者に情報漏洩および論文査読における整合性が疑われるとの指摘を受けて調査を進めたところ、疑わしいと指摘された3名の懲戒免職の手続きに動き、そのほかの2名は違反が認められたものの免職には当たらないとしました。免職対象の3名のうち2名は解雇される前に辞職し、残る1名は調査中となりました(4月時点)。NIHもMDアンダーソンがんセンターも個別の嫌疑の詳細や3名の情報を明らかにしていませんが、情報の漏洩先は中国であり、嫌疑ありとされたのは中国系の研究者と報道されています。 内部情報を基にした報道によると、嫌疑の対象になったうちの一人は疫学部教授のXifeng Wuです。彼女は中国生まれですが、テキサス大学で博士号を取得し、米国籍を所有していました。数々の業績をあげ、MDアンダーソンがんセンターの疫学部長として、中国の研究者やがんセンターと密接な関係を築いてきました。中国の研究機関との共著論文も多数発表しており、その数は26研究機関、87本に及びます。しかし、2014年頃からMDアンダーソンがんセンターから中国の研究機関に情報が漏洩しているのではないかとの疑いがもたれるようになり、当センターはセキュリティを強化しましたが、FBIが2017年夏に研究および専門情報の盗難の可能性の調査を始めると、その調査途中の2019年1月にWu博士は辞職してしまいました。3月には中国に戻り浙江大学医学院公衆衛生学部の学部長の職に就いています。Wu博士の嫌疑が正当であったのか、辞任の理由が何であったのかは明らかにされていませんが、情報窃盗として容疑が固まるには至りませんでした。とはいえ、米国内の研究施設からの情報漏洩や知的財産盗難については警戒感が高まっており、同センターも秘密情報の窃盗については処分を強化すると言及しています。 事件の背景 こうしたケースはMD アンダーソンがんセンターに限りません。NIHが2018年8月に疑惑を指摘した研究機関は数十箇所に上り、中国をはじめとする外国が絡んだ情報漏洩の摘発を狙ったようです。米国上院の予算委員会でNIHの高官が2019年6月行った報告では、外国政府と秘密裏に関係している疑いにつき、HIHが研究資金を提供している研究機関のうち61箇所にFBIの協力を得て予備調査を行った結果、うち16機関に法律違反の可能性があると述べています。NIH高官は別の機会に「本来は秘密扱いとはならない基礎研究であっても、将来的には特許申請に結びつくものが含まれている可能性はあるので、そのような情報を外部に流すのは実質的に情報を盗むことと同義である」との趣旨の発言をしています。こうしたことを踏まえてメディアは、今回の事件は中国との貿易戦争を背景に、米国政府が学術関連の情報の取り扱いについて、中国および中国系の研究者に圧力かける意図があったと分析しています。 米国のあせり? トランプ政権による中国との貿易戦争は、上乗せ関税の応酬のニュースが目立ちますが、中国における国家主導の経済体制と並んで、米国が重視している争点のひとつに知的財産の保護があります。中国の知的財産の問題は、ブランド品の贋作の輸出や、国内での外国特許や著作権の侵害ですが、その手口は巧妙化の一途をたどっています。中国政府は11月24日に知的財産権侵害への罰則を強化すると発表していますが、ここにきて米国が特に研究情報の漏洩に強い姿勢を示している背景には、科学技術における中国の躍進への警戒もありそうです。 ここ20年ほどで中国の科学技術における発表論文数は大幅に増加しています。米国国立科学財団(NSF)が発表した報告書『SCIENCE & ENGINEERING INDICATORS 2018』によれば、科学技術分野の中国の論文発表件数は2003年から2016年に5倍に増加しています。一方、米国は同期間に約1.3倍になっただけであり、2010年以降は横ばいで、2015年に前年よりやや減少し、2016年には中国に抜かれています。こうした状況に、米国が焦りを感じていることは否定できないでしょう。…

プランSの学術界への影響は⁈(2)

論文のオープンアクセス(OA)化に向けた公的助成機関によるイニシアチブ「cOAlition S」の開始と、OA推進の10の原則「 プランS 」についての概要、ならびに、このプランSへのフィードバック募集(期限:2019年2月8日)については別記事で紹介しました。学術研究者のみならず、出版界もこのプランSの動向に注目しており、600を超えるフィードバックが寄せられたそうです。それらの意見を踏まえてcOAlition Sが目指すOAの実現に向けた手引き「Guidance on the Implementation of Plan S(以下、手引書)」が改訂され、効力の発生時期を予定より1年遅れの2021年1月1日に延期するなどの変更が加えられました。この動きは学術界にどのような影響を及ぼすのでしょうか。 加速するオープンアクセス 2019年5月31日に発表された手引書の改訂版には、cOAlition S参加機関による研究助成を受けた研究成果(査読出版物)は、すべてOAジャーナルかOAプラットフォーム、またはOAリポジトリに即時発表しなければならないとされる日が、当初計画されていた2020年ではなく2021年1月1日となったことが記されています。OAへの移行には時間が必要であるとの指摘に対応し、出版社のビジネスをOAモデルにシフトする時間的猶予を与えるものと見られます。とはいえ、効力発生日までに学術界が適応しきれるのか疑問視する声は根強く残っており、さまざまな点で論議を呼んでいます。 改訂点…

日本の研究力低下を止められるか

2019年10月9日、テキサス大学のJohn B. Goodenough教授、ニューヨーク州立大学のM. Stanley Whittingham教授とともに、旭化成名誉フェローの吉野彰氏が2019年のノーベル化学賞を受賞され、日本中が喜びに沸きました。スマートフォンから電気自動車など、すっかり日常生活に溶け込んでいる製品にとって不可欠なリチウムイオン電池。この電池の開発で主導的な役割を果たした功績が称えられたわけです。 大変嬉しいニュースですが、喜んでばかりもいられません。日本のノーベル賞受賞数は、米国籍の研究者を含めて28人。化学賞に限っても8人が受賞しており、世界でも有数のノーベル賞受賞国となっていますが、将来この状況が続くとは期待できないと指摘されています。近年の受賞者を見てもわかるように、研究成果を発表してからノーベル賞受賞までにはタイムラグがあります。しかも、学術雑誌「Nature」の記事、または英国教育専門誌「Times Higher Education(THE)」の「世界大学ランキング」でも日本の科学技術力の劣化が示される中、受賞者だけでなく多くの研究者が研究力の強化と若手の育成が急務と指摘しています。 論文数減少 日本の科学技術力の低下が数字となって表れているものの一つが論文数の減少です。平成30年版「科学技術白書」で主要国における論文数の推移を見てみると、世界の論文数は増加しているのに対し、日本の論文数は減少。1990年代後半には横ばいとなり、2013年以降は減少に転じていました。国・地域別論文数では、論文発表数上位10か国・地域における日本の論文数は10年間で2位から4位に、被引用数Top10%補正論文数は4位から9位に転落しています。当然ですが優れた論文ほど引用される回数は多くなるので、論文数ともに被引用数が下がっていることも問題です。 予算削減の影響 これにはさまざまな原因が考えられますが、研究費の削減が科学研究を脆弱化させている一因と考えられています。2004年4月に国立大学の独立行政法人化が開始されて以降、研究活動の基盤となる運営費交付金、特に人件費が削減されたことで、教員や若手教員などの採用を抑制する動きが見られました。研究活動の基盤となる国立大学運営費交付金は13年間で12%(1445億円)減。長期的には、若手研究員の減少は研究力低下につながるとともに、任期付き雇用では落ち着いて研究ができない状況です。運営費交付金の減額をカバーするためとして、使途が決められている「特定運営費交付金」、または研究プロジェクトの費用が部分的に補助される「プロジェクト補助金」といった予算が計上されてはいますが、すべての国公立大学がこれらの競争的資金を獲得できるわけではないので、大学によってはどうにもならない状況に陥ってしまうのです。さらに競争的資金が増えても若手研究者の安定した雇用にはつながりません。このまま大学の予算が縮小すれば、ますます人件費は削減され、研究の継承や発展が困難となるでしょう。これが研究における支障となり、巡り巡って論文数の低下につながり、大学などにおける学術研究の根幹を揺るがす問題となってしまうのです。この状況を打開すべく、研究環境を改善し、科学研究を促進するための施策を見直すことが急務とされています。 大学だけではありません。The Japan TimesのOpinionに掲載された記事には、理化学研究所の研究機関への公的助成金が過去10年間で20%近く削減されたと書かれています。予算が削減された研究機関は、資金を確保するために国内外から資金調達をする努力を余儀なくされます。…

プランSの学術界への影響は⁈(1)

近年、学術界は論文のオープンアクセス(OA)化も含めたさまざまな変化に直面しています。かつては、ほとんどの研究者が学会に所属しており、自らの研究成果を提示する機会を学会に依存していました。学会の会合で発表したり、出版の誘いを受けて論文を投稿したりしてきたのです。しかし近年は、OAビジネスモデルに代表されるデジタル化の波により、学会の支配力は揺らいでいます。研究者は、学会に頼ることなく、多種多様な学術雑誌(ジャーナル)にいつでも、どこからでもアクセスできるようになっているからです。 新たな取り組み:プランS 2018年9月4日、欧州委員会(EU)と欧州研究会議(ERC)の支援を受け、欧州の研究助成財団・研究実施機関が加盟するScience Europeは、11の研究助成機関が助成した研究成果を完全かつ即時(論文発表直後)にOAにするためのイニシアチブ「cOAlition S」を開始すると発表しました。 発表時に署名した研究助成機関と国名 Austrian Science Fund (オーストリア)、French National Research Agency(フランス)、Science Foundation Ireland(アイルランド)、National…

査読レポートを書いているのは誰だ?

査読は科学研究の正確性や質を確保するプロセスです。優れた学術雑誌(ジャーナル)の多くには査読が付いており、投稿された論文が出版にふさわしいかどうかを判断しています。査読は、当該分野の知識を豊富に持つと学術界に認識されている研究者によって行われるべきです。査読者は投稿論文の正確性、明瞭さ、完成度をチェックし、その結果を査読レポートにまとめ、編集部に提出します。これは論文出版に向けた重要なステップです。査読レポートは、学術ジャーナル、論文執筆者の双方に対して偏りがないものでなければなりません。著者は、編集部から査読レポートを受け取り、指摘された箇所・内容への修正を行います。査読レポートに書かれた修正依頼に応じて原稿を書き直すことで、ジャーナルへの掲載が可能となります。最近では、この査読レポートを(著者以外も見られるように)公開する試みが行われており、話題となっています。 投稿論文が出版に値するかどうかを評価する方法として広く定着している査読ですが、そのプロセスの問題も指摘されています。そこにさらなる問題提起として、査読レポートを若手研究者が書いているという研究報告が出てきたのです。 若手研究員が査読レポートの執筆を? 2019年4月、ライフサイエンス分野のプレプリントリポジトリであるbioRxivに「Co-reviewing and ghostwriting by early career researchers in the peer review of…