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米国化学会、海賊版論文サイト「サイハブ」に勝訴

本連載でもお伝えしてきたように、「サイハブ(Sci-hub)」というウェブサイトでは、出版社のサイトでは有料でしか入手できない論文のPDFファイルを、誰でも簡単に無料でダウンロードすることができます。ジャーナル(学術雑誌)の購読料が高騰し、論文を手に入れにくくなったことに業を煮やした研究者アレクサンドラ・エルバキャンが2011年に開設したものです。多くの研究者に重宝されてきた反面、学術出版社などからは訴訟を起こされるなどされてきました。

世界最大の学会で、多くのジャーナルを発行する「米国化学会(ACS: American Chemical Society)」は今年6月、バージニア州の地方裁判所でサイハブを提訴しました。11月3日、バージニア州の地方裁判所はサイハブに対して、著作権侵害と商標違反の損害賠償として4800万ドルを同学会に支払うよう命じました。サイバブ側はこの裁判に出廷しませんでした。

最近のある研究では、サイハブには、世界の学術論文約8160万件のうち69%、米国化学会のジャーナルのコンテンツのうち98.8%が含まれている、と推定されました。

サイハブは学術出版大手エルゼビア社に著作権侵害で訴えられて、ニューヨークの裁判所から1500万ドルを損害賠償として払うことを命令されたこともあります。

米国化学会は声明文で「この判決は著作権法と出版産業全体の勝利である」と述べたうえで、サイハブとの「アクティブな提携や参画」をしている人々には、同学会の著作権で保護されたコンテンツや商標の不正使用に対する差し止め命令が出されることをこの判決は意味する、と説明します。つまりサイハブだけでなく、検索エンジンやサービスプロバイダなどにも適用される可能性があるということです。同学会はこれが執行されるよう動き始めているといいます。

この裁判所命令に実効性はあるのでしょうか? サイハブは閉鎖されるか、あるいは誰も検索エンジンでたどり着けなくなるのでしょうか?

ネイチャー・ニュース』では、知的財産の専門家が「アクティブな提携や参画」には解釈の余地があること、一般論としてはアメリカの裁判所は裁判に参加していない人々や団体に命令を出す権限は持っていないこと、しかし連邦規則(US federal rules)は禁止を命令された側と積極的に関係している者に対しては命令が及びうること、などを指摘しています。

サイエンス・インサイダー』では、別の専門家が、この判決は政府による検閲に第三者が関与を求められる前例になる可能性を指摘しています。

コンピュータ通信産業協会(CCIA)は「法廷助言書」を裁判所に提出して、プロバイダと検索エンジンへの命令を、エルゼビアによる訴訟でも米国化学会による訴訟でも、その訴えから除外するよう求めていました。この意見は前者では裁判官に取り入れられましたが、後者では却下されました。

なお同学会の広報担当者は、この判決は検索エンジンには適用されず、サイハブに「積極的に参加している団体」にのみ適用される、と『サイエンス・インサイダー』にコメントしています。

エルバキャンは今のところどのメディアにもコメントしていないようです。

サイハブは別の訴訟で閉鎖を命じられたこともあるのですが、アメリカの裁判所の命令が及ぶのは同国国内に限定されるため、ロシアのサーバーで運営しているサイハブはサービスを続けています。今回の判決でどうなるかはわからない、という意見もあるようですが、自由を重視するインターネットの世界では、その運営を止めることは不可能だろう、という推測もなされています。

もしサイハブが利用不可能になったら、高価な購読料を払うことのできる研究機関に所属していない研究者、とくに新興国の研究者に深刻な影響が出る可能性があります。そうした研究者もサイハブを必要とせず、論文、つまり公開された研究成果を自由に利用できるような情報環境があることが理想ではないでしょうか? しかし、現状はそうではないのです。

 


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ライター紹介:粥川準二(かゆかわじゅんじ)
1969年生まれ、愛知県出身。ライター・編集者・翻訳者。明治学院大学、日本大学、国士舘大学非常勤講師。著書『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)など、監修書『曝された生』(アドリアナ・ペトリーナ著、森川麻衣子ほか訳、人文書院)。博士(社会学)。


海賊版論文サイト サイハブ / Sci-hub をめぐって

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筆者は数年前まではどの研究機関にも属していなかったので、オープンアクセスになっていない科学論文を手に入れることに苦労していました。わざわざ図書館で印刷版をコピーしたり、大学などに属している友人にPDFファイルを送ってくれるよう頼んだりしていました。大学で教えるようになってからも、あえて何の特権もないままでどれだけ論文を入手できるかを試してきました。

幸いにも最近はオープンアクセスの論文も多くなりました。また、大きな声ではいえないものの誰でも知っているように、たとえ出版社のウェブサイトでアクセス制限があっても、「Google Scholar」などのデータベースをうまく使うと、インターネット上のどこかにアップされているPDFファイルが見つかることもあります。

一方、ジャーナルの購読料が高騰しているために、大学のなかにはジャーナルの定期購読をやめてしまい、研究者に必要な論文を個々に購入するよう求めているところもあるようです。また、いわゆる先進国ではない国々の研究者たちにとって、論文の入手にかかるコストは、先進国の研究者よりもずっと重いものでしょう。

2011年、そんな状況に不満を抱いたカザフスタンの大学院生アレクサンドラ・エルバキャンは、コンピュータのスキルを駆使して、数万件もの論文のPDFファイルを誰でも簡単に無料で入手できるウェブサイト「サイハブ(Sci-hub)」を創設しました。ネット上では、多くの研究者がサイハブを賞賛しました。

これに待ったをかけたのが、いうまでもなく出版社です。学術出版大手のエルゼビア社は サイハブ を訴え、2015年11月、ニューヨーク地方裁判所はサイハブが著作権保有者としての出版社の法的権利を侵害していることを認めて、ウェブサイトの閉鎖を命じました。「sci-hub.org」からは論文をダウンロードすることはできなくなりましたが、すぐに、「sci-hub.io」や「sci-hub.bz」、「sci-hub.cc」というミラーサイトが現れました(6月20日現在、「.io」は使えなくなっているようです。今後の展開次第では「.bz」や「.cc」も使えなくなったり、新たなミラーサイトが立ち上げられる可能性もあります)。そのサーバーは、アメリカの司法の力が及ばないロシアにあるようです。

サイハブは、いまでは50万件もの論文を収録しているといわれています。ただ、サイハブにはどれくらいのユーザーがいるのか、彼らはどこにいるのか、彼らはどんな論文をダウンロードしているか、といったことは明らかではありませんでした。

ジャーナリストのジョン・ボハノンは、エルバキャンからサイハブの詳細なログ・データを提供してもらい、その分析結果を『サイエンス』で「海賊版論文をダウンロードしているのは誰だ? みんなだ」という記事にまとめています(なおそのデータセットはここに公開されています)。その記事は、2015年9月から2016年2月までの6カ月間で2800万件ものダウンロードがあったこと、最もダウンロードが行なわれた国はテヘラン、インド、中国であり、都市でいえばテヘラン、モスクワ、北京であったこと、その一方で、アメリカやヨーロッパ諸国といったいわゆる先進国でもかなりのダウンロード数があること、などを明らかにしました。

最も打撃を受けた出版社はエルゼビア社のようです。同記事は、最近の1週間だけで、エルゼビア社が発行するジャーナルに掲載された論文のダウンロードが50万件あったと推測しています。

少し気になるのは、前述のように、ジャーナルへのアクセス環境が整っている先進諸国でも多くのダウンロードがなされていることや、2番目に多くダウンロードされている論文がオープンアクセスになっているものであるということです。同記事は次のように書きます。

サイハブを批判する者のなかには、多くのユーザーが同じ論文に図書館経由でアクセスできるのに、サイハブを使っていることに不満を述べている −− 必要だからというよりも便利だからである。アメリカはロシアに続いて5番目にダウンロードする者が多い国である。サイハブへの論文リクエストの4分の1は、経済協力開発機構(OECD: Organisation for Economic Co-operation and Development)に加盟する34カ国から来ている。ジャーナルへのアクセスが最もよいと考えられている豊かな国々である。

つまりサイハブは、論文を入手するために便利な、ただのポータルサイトにもなっているということです。確かに、たとえば自分が所属している研究機関がジャーナルを購読していても、それにアクセスするためにはパスワードが必要だったりして面倒です。サイハブなら、論文の題名を検索窓に入れるだけです。

もちろん出版社サイドは、サイハブに批判的です。たとえば『ネイチャー』では次のように伝えられています。

ワシントンDCにある科学出版の業界団体「アメリカ出版協会」の職業的学術出版部門長でエクゼクティブディレクターのジョン・タグラーは「サイハブの違法行為は、学術コミュニケーションすべての持続可能性を脅かします」と言う。彼は大きな出版社だけが被害者ではないことを指摘する。「より小さな出版社や大学の出版局が持っている論文すべてが盗まれているのです」と彼は付け加えた。

エルバキャンはエルゼビア社から、著作権違反だけでなく違法なハッキングについても訴えられています。そのため逮捕される可能性があることも彼女は認めています。以前に、同じように大量の学術論文を違法にダウンロードしたことで逮捕されたアーロン・スワーツのことを、エルバキャンはもちろん知っているようです。多額の損害賠償を求められたスワーツは自殺しました。

科学的な知識は誰にでも共有されるべきである、という理想でいえば、エルバキャンは英雄でしょう。しかし現在の制度では、彼女は犯罪者かもしれません。だとしたら、サイハブが必要とされなくなったときこそ、科学にとっての理想が実現したときである、ともいえそうです。
 
 


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ライター紹介:粥川準二(かゆかわじゅんじ)
1969年生まれ、愛知県出身。ライター・編集者・翻訳者。明治学院大学、日本大学、国士舘大学非常勤講師。著書『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)など、監修書『曝された生』(アドリアナ・ペトリーナ著、森川麻衣子ほか訳、人文書院)。博士(社会学)。